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【よさのみらい大学講座レポート】哲学と統計学との対話から考える「正しさ」の在り方とは

最終更新2023年04月01日(土) 10時00分
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哲学と統計学との対話から考える「正しさ」の在り方とは
講師 京都大学文学研究科哲学専修 准教授 
大塚 淳 氏
日時 2022年12月21日 19:00〜20:30
会場 与謝野町立生涯学習センター知遊館 研修室
講師の大塚氏

講師の大塚氏

今回の講義では「哲学と統計学との対話から考える『正しさ』の在り方とは」と題し、「科学的」に捉える視点と哲学の関係性や「正当化」について考えるお話をしていただきました。

大塚先生は初めに、受講生たちへ向けて「今日は、共に考える試みが大切です。」と言われました。「ただ聴くだけ、知るだけではなく、発言し、身につけることを大切にしてほしいです。」「歌えるようになるためには、歌わないとだめなのと一緒です。」と話されました。

哲学とは

哲学とは

哲学では、まず「知識や常識を疑ってみる」ことから始まります。
「何を知っているのだろうか。」「それってどういうことなのだろうか。」
ただ疑って既成の様態や価値を否定するだけではなく、論理的に考えて答えを導くことが大切です。

19世紀後半に「science(サイエンス)」という言葉が出てきましたが、科学的思考と共に哲学は発展してきました。
「科学的」な哲学というのは、イメージで語るのではなく人間の営みに位置付けた中で、一歩ひいた科学者とは違う視点で考えます。

「科学は、正しくなくてはならない。」
アメリカでは50%ほど進化論を信じていないといいます。
「正しければ、科学的知識といえる?」というとそういうわけでもなく、「取り決めで、科学的」という訳でもありません。

知識とは

知識とは

そもそも「知識」とは何か?
「知っている」というのは、「そのように思っている。」「そうだと信じている。」ということで、思っていても真実とはいえません。実際にそうでなければ、真実とはいえないのです。
つまり、思っていることが正しくても、それは知識とは言わないのです。

大塚先生は、例えばの例として、ご自身のズボンのポケットの右にコインが入っているか、左にコインが入っているかを会場の受講生に問われました。
そして回答を募られた後、「みなさんは片方のポケットにコインが入っていることを知っていたから答えたのではなく、“そのように思ったから”答えたに過ぎないと思います。」と続けられました。「コインが入っているほうが当たり、事実と一致したとしても、その回答に理由があるかどうか、単に正しいだけではなく、正当化されていることが必要になるのです。」と。

科学的知識とは

科学的知識とは

正当化された正しい知識で、科学とは、正しい仮説だと思われています。
科学では、「正当化されたかどうか」「ちゃんとした理由があるかどうか」を見ますが、それが「正しいかどうか」は別のことになります。
科学論文は、査読されるプロセスで、すごく懐疑的な目で見る人を説き伏せるだけの「説得のためのプロセス」「納得のためのプロセス」にすぎません。
ちゃんと説得できたものが、正当化され、科学として認められるのです。
しかし、ある仮説が正しいかどうかは、誰にもわかりません。多くの科学者が強く信じているけれど、正しいとはいいきれないのです。
全ての科学は、仮説であり、最終的には、正しいか正しくないかは、我々にはわからないものなのです。

では、科学的正当化とはどういうことかというと、根拠となるデータを示すことになります。しかし、データがあれば、なんでも良いわけではありません。

正しい科学的正当化を求めて行われるプロセスでは、1.観察・記録 2.数値化 3.統計処理 があります。
その中で「複数回確かめたのか。」「どんな条件で。」「まぐれ当たりを排除できているのか。」「良いこと、悪いことをどう定義しているのか。」「どういう基準で判定しているのか。」「再現できるのか。」こういった確認を通じて正当化されていきます。

けれども、「何が証拠とみなされるのか」という所も注意すべきところです。

18世紀における標本記録では、専門家が独自の基準で判断してきたところがあります。代表的なモデルを選択したり、汚れや不規則性を排除したり、特徴的なところだけを描いていたりします。
19世紀においては、専門家の知見だけでなく誰もが確認できる「数字」が判断・政策の根拠となりました。標本記録ではランダムにモデルを選択し、機械的に写して描く。客観的記録のために判断をいれないかたちで記録されてきました。

しかし、数字があれば、専門的な知見がなくても客観的に判断・評価できる?と多かれ少なかれ考えられがちですが、これも不確かな部分があります。
「ランキング」や「偏差値」などがわかりやすい例で、客観的な基準にみえる数字化のマジックです。
数字化する際にとってきているデータがランダムである分、漏れている分もありますし、とってくるデータが、過去の偏った部分的な判断基準となると、現状の真実を示しているとは言い難くなります。

統計学とは

統計学とは

どれくらいまぐれ当たりが出るかの計算をし、確率的な数字により、雰囲気を調整する。
データがどれだけ仮説を支持するかを定量的に表すのが統計です。
「科学の文法」としての統計学の位置付けは、記録ではなく、そこから推論するためのものです。「偶然じゃないの?」という疑いを説得するために統計学を使っているところがあります。データを証拠に使い、統計的処理をすることにより仮説の成否の判断をするわけです。

仮説の発見には、ひらめきや独創性など創意工夫が必要となります。
仮説の発見は、誰もが思いつくようなものであってはならない。けれども、検証は、誰もができるものではなければならない。という関係性をもって、思い入れがあって主張される事が、知識として認められるために機械化されたものが、科学的正当化されたものです。

人口知能(AI)とこれからの統計学

会場から「大塚先生の今研究されていることをもっと知りたいです。」という声があがり、大塚先生が最近取り組まれているAIについてのお話をされました。

AIでは、何億とおりもの計算により予測をします。
自動化、機械化、まさに客観性の理念に基づき、極度なスピードで処理をしてくれるのがAIです。
データ収集・記録。データの数値化。自動的に処理・・・完全に機械に任せたほうが、科学が客観的になるのではないか?とも考えられます。
しかし、「誰のための客観か」という疑問も生まれます。
人間では理解がおいつかず、どうしてそうなるのかわからないのに、知見は「科学的知識」と呼べるのか疑わしくなるのです。

何を根拠にして判断しているのかがわからない。
機械的だから客観といえども、元にしたデータが偏見や差別を含む主観的に判断されたデータだったとしたら、客観視できているとは言い難いわけです。
さらに、AIとしてミスが発生し敵対的事例を出したとしても、どういう見方をしているのか分からなければ、正しいかどうか我々は判断できないのです。

我々も他者や他のものがどのように世界をみているかわかりませんが、コミュニケートができます。
はたしてAIが見る世界を理解することができるのだろうか。対象への理解を伴わず、既存のバイアスを固定してしまうという危険性もはらんでいるのです。

「(反)客観性主義」に陥らないために

感想=主観的だから、「それってよくないよね?」といえるでしょうか。
客観的だから主観的だからで、良し悪し、正しいか正しくないかと判断しきれるかというと疑問です。

大塚先生は、「どういった匙加減が良いのか、判断を他者(AI)に委ねるのではなく、我々自身が考えていかなくてはならない課題は残ると思います。」と締めくくりました。

会場の様子

会場の様子

最後に、受講生からは「根拠を説明するAIが出てくるのではないか。」「説明するとしても、我々に解るところしか説明しないのではないか。」「有無を言わさず主観が排除されるのもどうかと思う。」というAIに対する考えや「哲学には、泥臭さが必要ではないかと思う。」「哲学とはエキゾチシズムを誘うものだ。」「哲学は、人間の実在性・快生を問うもの。」など哲学についての率直な思いも行き交う熱い質問、意見交換の時間となりました。

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