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【よさのみらい大学講座レポート】新 明智光秀論

最終更新2023年04月01日(土) 10時00分
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新 明智光秀論
講師 熊本大学 教授 稲葉 継陽 氏
日時 2019年11月16日(土)19:00 〜 21:00
会場 野田川わーくぱる2F
参加者 51名
講師の稲葉氏

講師の稲葉氏

講師の稲葉先生は、九州の熊本大学で10年ほど細川家の資料の研究をされてきました。資料の多くは、行政の日報のような記録帳で、約2000枚もの頁を綴じた袋とじが6万点にも及ぶ量で保存されているそうです。なかなかこれだけの資料を残した大名は珍しいそうです。そんな膨大な数の資料を解読していくのは大変で、専用の解読する組織を立ち上げて取り組まれています。

江戸時代に300程の存在した大名のうち、90%は成り立ちが不明の武士です。つまり江戸時代以前の資料はなかなか残っていません。しかし、細川家においては室町時代から明治4年に至るまでの資料が残っていました。その中でも特筆されるのが、信長の手紙です。信長から丹後にも所縁の深い、細川幽斎や明智光秀に送られた手紙が59通も残っていました。信長の手紙の原本は世の中に800点ほど残っていますが、そのうちの59通が細川家永青文庫という財団に残っています。また、明智光秀の娘、細川ガラシャは細川忠興(幽斎の息子の妻)であり、細川家と明智家は強い縁で結ばれていたので光秀についての関係資料も残っています。

【光秀の虚像と実像】

【光秀の虚像と実像】

明智光秀は、信長を倒した「謀反人」というマイナス評価が一般的にあります。しかも、織田信長からの冷遇・叱責への反抗、イエズス会や朝廷の黒幕の存在、光秀には主体性がなく、計画性が無かったため「三日天下」という状態になった。更には、信長の革命を光秀がストップさせた等の諸説が語られています。しかし、当時の記録を見ると、必ずしもそうではなかったようです。

当時権力を持っていた吉田兼見という神主(細川幽斎の従兄弟)の日記で光秀のことが記されていました。しかし、「山崎の戦い」によって光秀が秀吉軍に敗れた瞬間、その内容は書き換えられてしまったと言います。信長を光秀が討った後、光秀に領地の保障や保護を朝廷や兼見が願ったことや、貴族達が光秀を迎え入れていたという史実は削除されていました。光秀が謀反を働いたことについて良く思われていたことも削除され、書き換えられてしまいました。兼見は政界に通じていたので、兼見の日記は国家記録という意識でつけられていました。しかし、光秀が戦いに敗れてからは、日記上の記録も改ざんされ、光秀についてはマイナス評価を記しています。

今の光秀像というものは政治的結果に基づいて、作られた虚像である可能性も考えなくてはなりません。歴史の恐ろしさは、資料がこのように書き換えられることもあるということです。

【信長にとっての光秀】

【信長にとっての光秀】

稲葉先生は、800通におよぶ織田信長の手紙に目を通してこられました。そうすると、信長の家臣の中で抜群に能力が高かったのが、光秀と秀吉だったということがわかったそうです。非常に細かいこともできて、一方で大きな政治上での判断もできる人材だそうです。

湖西・湖北・若狭・越前を結ぶルートに根を張る光秀は、京都における織田権力の樹立に不可欠の存在でした。また、比叡山の焼き討ち後には、信長から近江国滋賀郡を中心とした延暦寺領が給与され、琵琶湖岸の港湾都市として繁栄していた滋賀郡坂本に天守閣を構築し、足利義昭没落後には、京都代官に登用されていました。

【信長の統治の考え方】

信長が上洛前から掲げていた『天下布武』。これは、天下統一のスローガンです。しかし「天下」というのは「全国」ではなく「近畿地方」を指しているという学説があがっています。

ルイス=フロイス(イエズス会の宣教師)の書簡(本国への報告書)資料により、当時日本は、66の国に分かれていて、その中で五畿内(山城国・大和国・摂津国・河内国・和泉国)の君主となるものを天下の主君と呼んでいたことがわかります。

天下5つの国々と、その他の国々との関係をどう作り上げていくか、当時の戦国時代をどう終わらせるかが、重要だったと考えられます。

信長は「天下」=畿内における政治権限を独占し、諸国大名に対する実権を行使しようとしていたにすぎません。これは将軍が直接統治することが前提にあり、将軍の権威のもとで畿内を統治するというシステムを目指していたことで、当時のごく当たり前のスタイルにのっとって信長も常識的に臨んでいたということです。

【光秀の政治力とは?】

【光秀の政治力とは?】

それでは、光秀はその中で、どのような地位を占めていたのでしょうか?

光秀は、近江滋賀郡(坂本城)と丹波一国(亀山城・八上城・福知山城)を領有し、さらに山城、大和国、近江高島郡、丹後一国の軍事指揮権を持っていました。

当時の「天下」及び周辺で同様の地位、権限を有したのは、羽柴秀吉(播磨・但馬)、柴田勝家(越前)、丹羽長秀(若狭)のみ。京の都を囲み込むように展開する光秀の支配・軍事式領域はその中でも突出しており、「光秀あっての信長」といえる統治だったようです。

そこで光秀はどのような支配体制を構築しようとしていたのでしょうか。

光秀は、江戸時代を先取りするような百姓と自分の家臣の支配を「検地」を通じて、丹波や滋賀郡で実現していました。検地というのは、土地を一定量実測することですが、ただ面積を測るだけでなく石高制度の基本データになります。江戸時代になると、どの大名でもそれぞれの領地の規模を石高で表すようになります。大名の領地の中で、大型単位の住民たちの自治的コミュニティ「村」という単位によって、米の生産性をはかり年貢体制をつくっていました。

光秀は、全体の石高の40%を大名直轄領とし、60%を家臣に年貢を取らせる領地の「あてがい」をしていました。これを主従制度(封建制度)といいます。また石高に基づいて、軍役(戦いに出る時の人員)、陣夫(戦時物資の力仕事)の動員数や、軍隊の規律(持っていく武器の数、荷物の運ぶ量、遠征の距離によっての運ぶ量など)も基準となる数字を定めていました。また、動員においてはタダ働きをさせず、領主と自分の家臣より食料の支給をするように定めていました。

光秀の石高制領国支配は、客観的数字に基づく権力のかたちとなり、生産者身分としての主張を強化する百姓(村)を基底に置いた近世的契約主義を先頭に立って進めていました。

【信長の権力の限界】

光秀や柴田勝家をはじめとする直臣大名領国では、近世的領国支配体制が形成され始めていました。しかし、信長による直臣大名の軍事動員方式は旧体制のままでした。

直臣に国や郡の支配権を預け、それに見合う出勢を要求し、結果のみを評価する。しかも、客観的基準なき軍事動員をし、室町将軍段階の中世的性格を帯びたままだったそうです。しかし、直臣大名らは、家臣団・村共同体との合意契約がなければ軍隊を動かすことはできないので、信長の権力と直臣大名の権力との間に構造上のズレが生じていました。

織田権力が戦争を継続すればするほど矛盾が激化し、天正8年8月以降、諸国の大名との中で感覚のズレや違和感がいっそう深刻化していきました。

【「本能寺の変」の歴史的意味】

【「本能寺の変」の歴史的意味】

将軍の存在がなくなり信長が「天下」を掌握した天正8年8月以降、信長から諸国大名へ出される服属令や停戦令は、室町幕府の将軍と同じレベルの状態でした。

<服属令>
信長の諸国大名との主従関係構築のための手段、すなわち大名を軍役・普請役等に動員するための領地宛行(あてがい)は、具体的な根拠が欠如していました。

<停戦令>
信長の私欲によるものか天皇の命によるものかが曖昧で、以前の将軍がいた時と同じような命で、「天下」と謳っていたので、それが国家を指すのか人格を指すのかが不明でした。はっきりとしない言葉で告げられています。対して、豊臣秀吉は、のちに大名どうしの領土紛争については、事前に領有変遷の歴史を調査した上で、国土高権を根拠に領土裁判権を行使し、取り組みました。

天正10年5月、織田政権は、武田攻めに続いて中国・四国への戦に光秀を含む直臣大名らに動員をかけますが、直臣大名との間に生じる矛盾はもはや限界に来ていました。

6月2日(本能寺の変)、出馬のために京都に出てきていた信長を止められるのは、五畿内「天下」に最高の軍事的地位を保持する明智光秀のほかにない状況だったのです。

織田政権は、近世的分権(村落自治−大名領国統治)の深化に対応できなくなった中世国家の最後のかたちといえます。そして、もしも織田政権の戦国動乱が続いていたとしたら、その後に迫るヨーロッパ諸国の動きから日本は植民地になり、江戸時代を迎えていられなかったかもしれません。

『本能寺の変』は、織田政権の迷走に終止符を打ち、豊臣政権の設立という近世封建国家の樹立過程における一大画期に道を開いた歴史的意味があり、光秀が日本歴史に刻み込んだ遺産といえます。

スライドで資料を見せながら講義いただきました

スライドで資料を見せながら講義いただきました

細川家が丹後にあった時代に、本能寺の変について事前に光秀から聞いていて、山陰地方を通じて秀吉に共有していた可能性がある等も想像できます。

稲葉先生は「可能性のある仮説を立てて楽しむのは自由です。」「細川家と本能寺の実態についても今後色々と調べていきたいと思っています。」と最後に話されました。

講義後にはたくさんの質問もありました

講義後にはたくさんの質問もありました

中世国家から近世国家へ進んでいった時代に光秀の起こした政治的な意味を感じることができました。「戦」での勝ち負け、悲劇だけでなく、政治的な施策や制度による自治や人々の暮らしまでも見えて来た講座となりました。

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