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【よさのみらい大学講座レポート】日本の歴史にもっと興味を持てる一番受けたい歴史の授業

最終更新2023年04月01日(土) 10時00分
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日本の歴史にもっと興味を持てる一番受けたい歴史の授業
講師 文学博士 呉座 勇一 氏
日時 2018年10月18日(木)19:00~21:00
会場 知遊館
参加者 56名
講師の呉座勇一氏

講師の呉座勇一氏

歴史を紐解きながら、日本と世界に共通する史実の傾向を考察する、呉座勇一氏が生んだベストセラー「応仁の乱〜戦国時代を生んだ大乱〜」を元に、日本史における「応仁の乱」から、世界史、現代の社会にも通じる視点、歴史の深さ、面白さに触れる話が繰り広げられました。

書籍「応仁の乱」がどうしてこんなに売れたのは、ギャップではないかと講師はいいます。そもそも「応仁の乱」って何か。知名度は高いけど、どういうものかよくわからず、そのギャップを埋めるように興味を集めたのではないのか。応仁の乱は、複雑なため小説やドラマの題材にし難く、史実としても取り扱いにくく掴みどころがないといいます。しかし、応仁の乱には、現代と通じる部分があると講師の考察は続きます。

「応仁の乱」はなぜ教科書に載るほど重要なのか。京都を中心にして行われていた政治が、応仁の乱をきっかけに解体しました。794年に平安京が出来てから日本の政治の中心は京都。有力な大名が京都に集結し、政治を行い、京都で全てを決め、地方に押し付けていたといいます。これが、応仁の乱をきっかけに崩れ、日本全国に戦国大名というものが現れるようになりました。守護大名は京都に住み、戦国大名は地方に住む。京都の将軍や天皇を形式的には尊重するわけですが、基本的には、戦国大名は自分たちの判断で自分たちの国を治めていました。地方自治のようなものが戦国時代に生まれ、その後の地方分権や地方自治の流れへと続き、その地方自治の源流にあたるのが「応仁の乱」で、日本史の転換点になります。

・応仁の乱では、歴史の転換期を迎えますが、意識的に「これからは地方の時代だ」、「地方分権にしよう」と起こしたものではありませんでした。

応仁の乱は、現実的には室町幕府の力が弱くなり、それによって従来の中央集権的な政治の仕組が機能しなくなって、なし崩し的に地方分権が起こったもの。日本史上での意義は大きいが、意図的、主体的な変革ではなかったため、その点が現代との共通点と考えられるといいます。昔から政界では、「明治維新」が好まれるが、現代においても政治家たちの改革で日本が変化している印象は薄く、戦後の仕組が徐々に機能しなくなり、なし崩し的に変わっているのが実態ではないか。そういう点で、応仁の乱の時代と現代は似ているのではないかと講師は考えるそうです。

「応仁の乱」と「第一次世界大戦」に共通して見えるものについて、著書「応仁の乱」を執筆した当時、応仁の乱と現代とを比較しようという気持ちで書いた訳ではなかったといいます。たまたま執筆時の2014年が、1914年に第一世界大戦が始まってからちょうど100年という節目の年で、色々と第一次世界大戦に関する書物が出ました。それらを目にして、「これは応仁の乱と類似しているのではないか」と思ったといいます。講師が似ていると考えるのは、第一に覇権勢力と新興勢力という図式です。第一次世界大戦は、イギリスを中心とした国際秩序に対して、新興国であるドイツが挑戦するという構図を持っていました。他の要因もあるが、ものすごく簡単にいうとイギリス対ドイツという図式。応仁の乱も、細川氏という大名を中心とした室町幕府の仕組に対して、山名という新興勢力が挑戦したという図式を持っているため似ていると捉えられるそうです。ただ、第一次世界大戦も応仁の乱も、この対戦の図式は、もともと意図したものではなく、ドイツでいうと最初からイギリスと戦う気はなく、応仁の乱でも山名は最初から細川と全面戦争をする気はなかったといいます。共通点の第二に、局地的な争いに様々な勢力が介入し、誰も予期しない大戦争になったということ。第一次世界大戦の場合、サラエボ事件があり、セルビアでオーストリアの皇太子が暗殺され、そこからオーストリアとセルビアと二国間の争いのはずが、多くの他国介入へと膨らみ、大戦争になってしまったといいます。応仁の乱でいうと、畠山という家の家督争いで、本来なら家の中だけの内輪揉めのはずでした。これに細川や山名など他の大名が次々と介入した結果、全国を巻き込むような大乱になってしまいました。共通点の第三に、誰も長く戦うつもりをしていなかった。第一次世界大戦が本格的に始まったのは1914年8月。参戦するヨーロッパ人はクリスマスには終わると思っていたものの1918年まで戦います。応仁の乱も、山名も細川も半年か1年で終わると始めたものの、11年も戦うことになり、短期決戦のつもりが長期決戦になってしまったといいます。

更に、勝ったところが万々歳にいかなかったところも似ており、勝者である連合国の中心にあったイギリスが形式的には勝者となるが、イギリスは第一次世界大戦で疲弊して、結果的に超大国、世界の中心の座をアメリカに譲ることになりました。応仁の乱も同じで、東軍が勝ったのですが、東軍の中心は細川。形式的には細川が勝者となるわけですが、細川はやはり応仁の乱で疲弊してしまい、その後内紛もあって弱体化していきます。結果として、戦国大名が勢力を伸ばしていくことになり、参加した大名は誰も得をせず、厳密には勝者のない戦争になった。

執筆最中において、シリアの難民問題が起こり、イギリスがEUから離脱するという話や、アメリカでトランプ大統領になる等、この先がどうなるのか予想できない、混沌とした時代を覚えるようになった読者が、知らず知らずのうちに現代と応仁の乱を重ね合わせて見る側面が出てきた結果ではないかと考えるといいます。

応仁の乱が11年もの長期戦になったことは、混乱を収拾できるリーダーがいないと考えられます。足利義政が室町幕府の将軍になった時点で、幕府の力は弱くなっていました。義政は、強いリーダーシップによって幕府を立て直そうと考えたが、大名の家督争いの支持を頻繁に変えることにより内紛が長期化した。義政がやっていたことは、相手に先を読ませない撹乱戦法で、短期的には効果を出すが、長期的には信用を失い、最終的に将軍の決定をひっくり返す結果になり応仁の乱が起こったと考えられます。

将軍の家督争いに細川と山名が介入した結果、応仁の乱が起こったというのが世間一般に知られている通説です。しかし、「応仁の乱」は将軍家の家督問題ではなく、畠山家の家督問題から起こったもので、戦国時代に『応仁記』という応仁の乱についての物語がつくられており、応仁記を書いた者が、「意図的にねじまげてフェイクニュースを作ったのだろう」というのが最近の説と説明されました。

「応仁の乱」に限らず、歴史上の出来事というものは、意外と本当の事が正しく伝わってないことがあり、特に「物語」の影響というものが非常に大きいといいます。「太閤記」では、秀吉が懐で草履を温めていたとか、どう考えても後からつくられた話が、なんとなく本当の事として受けとめられていて、正しい歴史を学ぶことは容易ではなく、「物語的なものにだまされない」ことを意識して、歴史を学んでいくことが必要だと問いかけるように説明されました。

受講生の質問ににこやかに答える講師

受講生の質問ににこやかに答える講師

質問タイムでは受講者より「たくさんの登場人物が出て来てこんがらがらないのか」という問いがありました。「知っている事柄だと、こんがらがらない。学生時代はわからないことも多く、こんがらがることもあったが、理解整理できるまで勉強すれば、こんがらがらない。」と講師は答えました。間違った歴史が、まかりとおってしまうのは、そのほうが物語として分かりやすいので信じられてきたからだといいます。講師は、「手っ取り早く分かろうとするから落とし穴がある」という言葉を添えました。

歴史講座は日本そして地域の過去に起きた事象を学ぶだけでなく、地域の文化や、その時代を生きた人々の哲学を学ぶこともできます。歴史が成したことから「どのように社会が変わったのか、それを人材育成や地域の活性にどのように結びつけるか」を含めて考える機会になりました。

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